コラム
私の息子は血友病
二十歳になった息子の寝顔を、こんなふうに静かに見る日が来るなんて。
智美は、洗い終えた食器を拭きながら、リビングのソファでうたた寝をしている息子―(ひさし)を見つめた。
少し前まで、二十歳なんてずっと先のことだと思っていた。
この子が無事に大人になる日が、本当に来るのだろうか。
そんなふうに、不安の底で息をひそめるように過ごしていた時期が、たしかにあった。
「ひさし、風邪ひくわよ」
そう声をかけると、永は薄く目を開けて、「あ、寝ちゃってた」と笑った。
その笑い方は、幼いころから変わらない。
その顔を見ていると、いつも思う。
あのとき、怖がりながらも前に進んでよかった。
知らないことだらけで、不安に押し潰されそうな夜もたくさんあったけれど、それでも、この子に会えてよかったと。
今日は、永の二十歳の誕生日だった。
知らなかった、という始まり
自分の体に違和感を覚えたのは、18歳を過ぎたころだった。
昔から生理は重かった。
けれど、母も「女はそんなものよ」と言うし、自分でもそう思っていた。
ナプキンを何度も替えなければならない日が続いても、立ちくらみがしても、仕事を休むほどではないからとやり過ごしてきた。
だが、ある朝、通勤電車のホームで視界が白くなった。
そのまましゃがみ込み、見知らぬ女性に「大丈夫ですか」と声をかけられた。
その日のうちに婦人科を受診し、貧血の検査を受け、さらに血液の詳しい検査を勧められた。
そこで初めて、医師から言われたのだ。
「念のため伺いますが、ご家族に出血しやすい方はいませんか」
私は首をかしげた。
父は、子どものころに亡くなっている。病気がちだったという記憶しかない。
親族のことも、母は多くを語らなかった。
数週間後、検査結果を前にした医師は、静かにこう言った。
「血友病の保因者である可能性があります」
一瞬、意味がわからなかった。
血友病。聞いたことはある。けれど、自分とつながる言葉だとは思っていなかった。
家に帰って母に尋ねたとき、母はしばらく黙っていた。
それから、小さくため息をついて言った。
「……お父さんが、そうだったの」
その場で何も言えなかった。
知らされていなかったことへの驚き。
どうして今まで言ってくれなかったの、という思い。
そして、自分の人生に関わることを、自分だけが知らずにいたという寂しさ。
母を責めたい気持ちもあった。
でも、母もまた、当時の時代の中で、誰にも相談できずに抱え込んできたのだろうと、後になって思った。
辰典との出会い
そのころ私には、付き合って2年になる恋人がいた。
会社の同期だった辰典だ。
いつも少しのんびりしていて、細かいことに動じない。
結婚の話が現実味を帯びてきたころ、ついに彼に打ち明けた。
「私、血友病の保因者みたいなの」
会社帰りのファミレスだった。
自分でも驚くほど事務的に話したことを覚えている。
男の子が生まれたら、血友病の子どもが生まれる可能性があること。
自分も出血しやすい体質かもしれないこと。
妊娠や出産にも注意が必要になるかもしれないこと。
話し終えても、辰典はすぐには口を開かなかった。
その沈黙が怖かった。
けれど、しばらくして辰典は言った。
「それ、ちゃんと一緒に知っていけばいいんじゃない?」
私は顔を上げた。
「びっくりはした。でも、智美が悪いわけじゃないし」
「……でも、子どもが」
「うん。そういう可能性があるんだよね。でも、可能性があることと、不幸になることは別じゃない?」
その言葉にどれほど救われたことか。
後で知ったことだが、辰典はそのあとかなり調べたらしい。
血友病の治療は進歩していること。
適切な医療につながれば、学校生活も、仕事も、人生も、十分に築いていけること。
昔のイメージだけで決めつけてはいけないこと。
「ちゃんと知ったら、思ってたよりずっと“生きられる病気”だと思った」
そう言ってくれたとき、私は初めて自分の人生を誰かと共有できる気がした。
出産という壁
結婚してしばらくして、妊娠した。
嬉しかった。
でも、それ以上に怖かった。
赤ちゃんは無事に生まれてくるだろうか。
もし男の子だったら。
もし血友病だったら。
そもそも、自分はちゃんと産めるのだろうか。
最初にかかった産院で、勇気を出して自分が血友病保因者であることを伝えた。
すると医師はカルテの手を止めて、首をかしげた。
「ええと……血友病って、白血病とは違うんだよね?」
その瞬間、背中が冷たくなった。
診察室を出たあと、病院の廊下でしばらく動けなかった。
自分が責められたような気がした。
命を迎えようとしているのに、祝福ではなく、否定を受け取ってしまったような気がした。
その晩、辰典に話すと、彼は珍しく怒った。
「病院、変えよう」
「でも……」
「でもじゃない。智美が安心できない場所で産む理由、ひとつもないよ」
そこから二人は、血友病に理解のある医療機関を必死に探した。
産科だけでなく、小児科とも連携できること。
必要時に新生児対応が可能な体制があること。
私自身の出血リスクも踏まえて準備してくれること。
やっと見つけた病院の医師は、最初の面談でこう言った。
「大丈夫です。慎重に準備していきましょう」
「わからないこと、不安なことは、ひとつずつ一緒に確認しましょう」
その“わからないことを、わからないままにしない”という姿勢にどれほど救われたかわからない。
出産は、楽ではなかった。
分娩の方法についても何度も話し合い、赤ちゃんへの負担、自分の出血リスク、その両方を考えて準備を進めた。
いよいよ出産の日を迎えたとき、もう半分祈るような気持ちだった。
生まれたのは、男の子だった。
泣き声を聞いた瞬間、涙があふれて止まらなかった。
生まれてきてくれた。まず、それだけでよかった。
けれど、そのあと出血が多く、私自身の処置は長引いた。
産後もしばらくは体を起こすのもしんどく、思うように赤ちゃんを抱けない時間があった。
満身創痍だった。
出産とは、こんなにも命がけなのかと思った。
そして生後数日後の検査の結果、永は血友病であることがわかった。
ベッドの上でその説明を受けたとき、不思議なくらい静かだった。
覚悟していたからかもしれない。
あるいは、やっと名前のついた現実に追いつこうとしていたのかもしれない。
辰典は、保育器の向こうで眠る永を見ながら言った。
「本当にかわいいね、一生守っていこうね。」
血友病と本当の意味で向き合う日々が始まった。
抱きしめるにも、覚悟がいった日々
永が小さかったころ、いつも頭のどこかで緊張していた。
転ばないだろうか。
ぶつけていないだろうか。
泣き方がおかしくないだろうか。
熱が出たら。頭を打ったら。見えないところで出血していたら。
血液製剤のことも、一つひとつ覚えていった。
病院への連絡、受診の目安、緊急時の対応。
最初は言葉の意味すらわからなかったのに、気づけばメモ帳には医療用語が並ぶようになっていた。
夜中に熱を出して受診したこともある。
青あざひとつで胸がざわついたこともある。
元気に笑っていた数時間後に、急に足を痛がって抱き上げたこともあった。
「大丈夫かな」
その言葉を、一日に何回口にしたかわからない。
でも不思議なもので、わからないことが減るたびに、不安は少しずつ解けていく。
母親として逞しくなっていったということだろうか。
暮らしは少しずつ日常になっていく。
そのことを、永に育てられながら学んでいった。
小学校という、社会の入り口
小学校入学前、何度も学校と話し合いをした。
どこまで伝えるか。
どんな時に連絡してもらうか。
体育や校外学習はどうするか。
薬や受診について、学校側にどこまで理解してもらえるか。
「私たちも学びながら永くんが安心して過ごせるように努めて行きます。」
その言葉に救われた。
先生も不安だっただろうと思う。
でもそういう人に出会うたびに、永は他の子供と変わらず育っていけると思わせてくれた。
永自身は、どちらかといえば明るい子だった。
少し痛くても「平気」と言ってしまうところがあり、それがまた私をハラハラさせた。
「痛かったらちゃんと言って」
「これくらい大丈夫だよ」
「何かあってからじゃ遅いのよ」
そんなやり取りを何度もした。
けれど、成長するにつれて、永は自分の体のサインを少しずつ言葉にできるようになっていった。
それは私にとって、大きな安心だった。
部活への挑戦
中学生になった永は、野球部に入りたいと言った。
「みんな何かやってるし。俺もやりたい」
その一言が、眩しかった。
普通のことを、普通に言える年齢になったのだと思った。
一方で、心配もした。
ボールが当たっても大丈夫なのか。
止めたほうがいいのではないか。
辰典は言った。
「最初から全部だめって言うのは違うよな」
私も、わかっていた。
この子の人生を、怖さだけで囲ってはいけない。
顧問や学校、主治医とも相談しながら野球部に入ることになった。
最初は、帰ってくるたびに永にこう尋ねていた。
「今日どうだった?」
「ふつう」
「痛いとこない?」
「ないってば」
その“ふつう”の一言に、どれだけ救われたことだろう。
部活で思うようにいかない日もあった。
周りと同じようにはできない悔しさも、永なりにあったと思う。
でも、そのたびに少し考え、少し工夫し、自分の体と折り合いをつけていく姿を、誇らしく思えた。
血友病があるから諦める人生ではなく、血友病があっても自らやりたいことを選んでいく人生。
永はそんなふうに、自分の道を覚えていった。
子育ての途中、自分を責めたこともある。
私が保因者だから。
私がこの子に遺伝させたから。
そう思ってしまう夜が、やはりあった。
そんなとき、辰典はいつも真正面から否定した。
「智美のせいじゃない」
「でも……」
「この子が生まれてきたことを“誰かのせい”にするのは、違うだろ」
強い言葉ではなかった。
でも、揺るがなかった。
辰典は大げさに励ます人ではない。
ただ、事実を事実として受け止め、必要なことを調べ、できることをする。
その繰り返しで永を、そして私を支えてくれた。
永が小さいころ、慌てる私の横で、辰典は持ち物を静かに確認し、車を出し、医師の説明をメモしていた。
学校との面談の日も、「俺も行くよ」と当たり前のように言った。
おおらか、というより、腹がすわっているのだと今なら思う。
あのとき、ファミレスで
“可能性があることと、不幸になることは別”
と言った彼の言葉は、これまで幾度と心の中で大切にしてきた言葉だ。
二十歳の夜に思うこと
誕生日のケーキを食べ終えて、永はテレビを見てゲラゲラ笑っている。
辰典はその横で、「二十歳かあ、酒はほどほどにしろよ」と、少しだけ父親らしいことを言って。
その光景を見ながら思う。
たしかに大変なことはあった。
出産も楽ではなかった。
育児は心配の連続だった。
学校とのやり取りに疲れたこともある。
血友病であることを、何も気にせずに暮らせたわけではない。
でも、それでも。
“この子が血友病だから不幸だった”
と、一度でも本気で思ったことがあっただろうか。
静かに首を振る。
違う。
大変なことはあった。けれど、それは不幸とは違う。
知らないことが多くて怖かったことはある。
けれど、知ることで世界は変わった。
つながることで孤独感はやわらいだ。
支えてくれる人と出会うことで、「やっていける」が少しずつ増えていった。
永は、血友病のある息子だ。
そして同時に、よく食べて、よく笑って、少し抜けているところがあって、人を大切に思える優しい息子だ。
血友病は、この子のすべてではない。
でも、この子の人生の一部ではある。
だからこそ、正しく知り、支え、恐れすぎず、放ってもおかず、一緒に歩いていくことが大切なのだと思う。
ソファで伸びをした永が、「母さん、何見てるの」と照れくさそうに言う。
「大きくなったなって思って」
永は少し笑って、「そりゃ二十歳だからね」と言った。
その当たり前の言葉が、何より愛おしい。
血友病の息子を育てる人生は、たしかに楽ではなかったかもしれない。
けれど、思っていたよりずっと、あたたかく、たくましく、希望のある日々でもあった。
もしあの日の自分に会えるなら、私はこう伝えたい。
大丈夫。
不安が消えるわけじゃない。
でも、一人で抱えなくていい。
正しく知って、ちゃんとつながれば、ちゃんと育っていく。
そして何より、あなたはこの子が生まれてきてよかったと思い続けるよ。―私の息子は血友病。
そして、私の自慢の息子だ。